蒲生氏郷は文武両道!


辞世の句 かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまうのです。それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのですか)

蒲生氏は藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。

織田家臣時代 


近江国蒲生郡日野に六角承禎の重臣・蒲生賢秀の三男として生まれる。

幼名は鶴千代と名付けられた。 

永禄11年(1568年)、観音寺城の戦いで六角氏が滅亡すると賢秀は鶴千代を人質に差し出して織田信長に臣従した。

鶴千代と会った信長は、「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん(蒲生の息子の瞳は他の者と違う。普通の者ではあるまい。私の婿にしよう)」と言い、自身の次女を娶らせる約束をしたという(『蒲生氏郷記』)

永禄12年(1569年)の南伊勢大河内城の戦いにて14歳で初陣を飾る。

戦後、信長の次女を娶って日野に帰国した。


相応院(そうおういん、永禄4年(1561年) - 寛永18年5月9日(1641年6月17日))

織田信長の次女。蒲生氏郷の正室。


永禄12年(1569年)の大河内城の戦い後に、信長は自らの娘を与えて娘婿として迎えた。

織田家からは加藤次兵衛が付添った。2人の間には息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている。

本能寺の変(信長の死)以後


天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により自刃すると、氏郷は安土城にいた賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って乗物50丁、鞍つき馬100頭、伝馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。

光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈であったが、直前に山崎の戦いで敗走途中に死亡した。

秀吉に従う!

羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀長の下、峰城をはじめとする滝川一益の北伊勢諸城の攻略にあたった。

戦後、亀山城を与えられるが、自身は入城せず、家臣の関盛信を置いた。

天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは


3月に滝川一益・浅野長吉・甲賀衆等と共に峰城、

4月に戸木城、

5月に加賀野井城を攻めた。

特に加賀野井城攻めで籠城衆を殲滅するなどの戦功を挙げる。

1584年4月17、蒲生賢秀が死去(51歳)。

小牧長久手の戦いの後、氏郷(29歳)が近江日野から伊勢松ヶ島へ転封(加増)される。


天正15年(1587年)の九州征伐では前田利長と共に熊井久重が守る岩石城を落とす活躍を見せた。

天正16年(1588年)には伊勢国飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。寺院を町の外側に置き、町筋を直線ではなく角を要所に造って一度に多くの敵兵が攻め込めないようにし、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。

同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を下賜された。

天正17年(1589年)の方広寺大仏殿の石組工事で、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江国大津の三井寺の上から切り出して、京都まで運んだ。

その石は、諸大名が運んだものの中で最大であったという。

この年の7月には領内で検地を行い、織田信雄時代に残されていた貫高制から石高制に統一した。

天正18年(1590年)の小田原征伐では、討死を覚悟して肖像画を残して出陣した。

韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加。包囲中、7月2日の夜に敵将の太田氏房から夜襲を受ける。


この時、氏郷は陣を回っていたため、甲冑を着る余裕がなく、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り、たった一人、乱戦の中で槍を抱えて敵の背後に回り、敵兵を次々と討ったという。戦後に「三階菅笠」の馬印の使用許可を得た(『常山紀談』)。

会津移封で大大名へ

一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥国会津に移封され42万石(のちの検地・加増により91万石)の大領を与えられた。

これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初は細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。

また小田原遅参によって改易された下野小山氏に代わって藤原秀郷の嫡流となり、家紋を立鶴から三頭の左巴に変更した。


秀吉は黒川城を出発するに際し、氏郷と木村吉清を召し出し、両人の手を左右の手にとって「今後、氏郷は吉清を子とも弟とも思い、吉清はまた氏郷を父とも主とも頼み、京都への出仕はやめて、時々会津に参勤し、奥州の非常を警固せよ。

もし凶徒蜂起のことがあれば、氏郷は伊達政宗を督促して先陣させ、氏郷は後陣に続いて非常の変に備えよ」と諭したという。

鶴ヶ城築城

鶴ヶ城の築城と同時に城下町の開発も実施し、町の名を黒川から「若松」へと改めた。「若松」の名は、出身地の近江日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

 

 氏郷は会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったとされる。

反面、与力大名や重臣に多くの所領を与え、自身の蔵入地を少なくしたことで、重臣たちが大きな力を持ち、氏郷没後に重臣間の権力争いを生じさせた。

蒲生氏郷5つの逸話

1 レオンという名を持っていた 

  彼はもともと蒲生賦秀(やすひで)という名前でしたが、豊臣秀吉の「秀」が下にあるのはよろしくないとして氏郷に改名しています。1585年に洗礼をうけキリシタンとなると、「レオン」という名を授けられました。 

2 徹底したスタッフ管理をした 

 氏郷は1日に3回出勤簿を付け、家臣の勤務状況を把握していたそうです。これはサボらないようにという意味もありましたが、士気をあげる意味が大きかったようです。人を使うのが上手い人でありました。 

3 非常に律儀な性格だった 

 本能寺の変で織田信長が殺されたとき、明智光秀討伐の前に信長の奥さんと子供を保護することを考えました。光秀が山崎の戦いで死んだ後すぐに京都へ行き、奥さんと子供の無事を秀吉に報告しています。義理と人情に篤い男です。 

4 運も強かった 

 松ヶ島の城主となった蒲生氏郷ですが、菅瀬合戦で急に敵の銃声が聞こえたので飛び出したところ3発被弾してしまいます。銃弾はすべてかぶっていた鯰尾兜に当たり、危ないところで命拾いをしました。 

5 イタリア人の武将を従えていた 


 キリシタンだった氏郷は、バテレン追放令が出たにもかかわらずそのまま信仰を保ち、家臣としてジョバンニ・ロルテスという者を従えていました。ロルテスもまた会津に移住しており、当時ローマ出身の青い目の武将が会津にいたのです。

 会津藩主となった氏郷は、革新的な経済政策を打ち出し、会津藩繁栄の礎を築きます。 

その後従三位となり身分的に上りつめましたが、体調を崩し1595年に40歳で亡くなります。 

 文武両道で義理人情に溢れ、そのうえ勇敢で部下の扱いもうまいという非の打ち所のないタイプの武将で、天下人からも一目置かれる存在でした。長生きしていればと惜しまれます。







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