信長と戦い続けた近江の武将 六角義賢(承禎)

六角義賢(承禎)は、近江国守護として同地一円を支配した。 

義賢(承禎)は近江六角氏の出身で、宇多天皇の孫・源雅信を祖とする源氏の一族です。

義賢は名門一族を背負い、織田信長と戦い続けた。


大永7(1521)年、義賢は近江守護・六角定頼の嫡男として生まれました。

天文2(1533)年(13歳)で観音寺城において元服しています。

室町幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受けて「義賢」と名乗りました。 

 父の定頼は、足利義輝(後の13代将軍)の烏帽子親です。

中央政界にするため、将軍の後盾として度々京都に兵を派遣していました。

幕府からは管領代に任命されており、かなりの発言力があったことが窺えます。

烏帽子親とは?

武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。

この仮親を烏帽子親と呼び、被せられた成人者を烏帽子子と呼んだ。

また、この際に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があった。

その諱を烏帽子名という。


父定頼の実績

定頼が行った政策は革新的なものでした。

城割(家臣を観音寺城に集めて居住させる)は、後に一国一城令の先駆けとされています。

また、全国で初めて楽市楽座も行われています。

定頼は、六角家の全盛期を築いた武将でした。


義賢はそんな偉大な父の晩年から、共同して六角家の統治を行います。  


天文18(1549)年には、父とともに姉婿である細川晴元を援助して三好長慶と江口の戦いで衝突しました。

義賢は一万の兵を率いています。 


この戦いに勝利した三好長慶は、細川京兆家の当主に担いだ細川氏綱とともに上洛しました。


翌天文19(1550)年には摂津を平定して三好政権を誕生させました。 

 一方の晴元と将軍義輝は近江に逃れ、以後は政権奪取に向けて度々三好軍と交戦することになります。


江口の戦い

三好長慶は、父・元長の死によって若くして家督を相続し、父と同じく細川晴元の家臣として数々の戦で功績をあげました。 

長慶は三好宗家の当主として着実に勢力をのばしてはいたものの、一族内部は分裂していました。元長の時代から、三好政長との対立が続いていたのです。

天文18(1549)年、ついに両者は衝突。「江口の戦い」が起こりました。

長慶は出陣し、摂津の中島へ入りました。 

長慶派の味方には、摂津の三宅、池田、瓦林、山城西岡の鶏冠井、物集女、丹波の内藤国貞、和泉の松浦氏らがいました。 

 一方、政長を応援する晴元は4月26日に摂津へ出陣しました。

5月5日に政長が三宅城に入ると、28日に晴元も合流。これより前に、晴元は六角定頼に援軍を依頼しています。 

 6月11日、政長は江口に陣を構えました。


この江口という場所は北中島の東北端。淀川、支流の神崎川が三方を囲んでおり、河川交通の要衝でした。

戦国時代ごろは江口村船頭が渡し船を運営していましたが、渡し船を止めてしまえば断絶され、孤立するような場所でした。 

政長は三宅からの通路を確保しようとしたのでしょうが、この行動は長慶にとって好機でした。

江口と三宅の間を断って、政長勢を追い詰めたのです。

政長軍の後ろに六角定頼が控えていることは明らかで、長慶はぐずぐずしている暇はありませんでした。 

 12日に戦いが始まると、24日に六角定頼が到着する前に決着をつけたのです。 

 24日、長慶の総攻撃により政長は水死、政長軍は平井新左衛門、田井源介、波々伯部左衛門尉など、あわせて800人ほどが討死した。 

 六角の軍2万が鳥羽に到着したのはこの翌日のことでした。六角軍は「晴元戦死」の誤報により、早々に引き上げてしまったようです。


家督相続と敗戦 

天文21(1552)年、定頼が死去したため義賢が家督を相続し、六角家の当主となりました。 

 六角家は、広大な領土を持ち、南近江の6郡に伊賀国の4郡のうち3郡を間接統治していました。

義賢はそれに甘んじることはなく、領土拡張にも積極的に乗り出します。

弘治元(1555)年には、伊勢国に出兵しました。さらに将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦っています。しかし当初は優勢であった勢力差が逆転し、敗戦を続けていきました。

将軍地蔵山の戦


永禄4(1561)年、義兄・細川晴元が三好長慶に幽閉されたため、義賢は上洛を決意。河内国の畠山高政と共に京都に兵を進めました。 

将軍地蔵山の戦が勃発


三好長慶の嫡男・義興と松永久秀に勝利を収め、三好らを一時的に京都から追放しました。

翌年には洛中に進軍し、徳政令を敷いています。この時点で義賢は山城国を掌握していたようです。 義賢はここで動くのを止めます。

義賢は山城国から撤退して三好長慶と和睦しました。


永禄崩れと実権消失 

永禄6(1563)年、六角家を激震させる大事件が起きました。

義賢の嫡男で当主義晴が、重臣である後藤賢豊を観音寺城で殺害してしまいます。 

賢豊は最有力の重臣で、義賢の信任が厚い人物でした。

義治が六角家家中における義賢の影響力を排除する目的だったという説もあります。

永禄崩れ

これには家臣の多くが不信感を表面化させました。家臣団が二万の兵で観音寺城を取り囲み、義賢と義治は甲賀郡に逃げ込みます。 

 その後、義賢らは重臣の蒲生定秀・賢秀親子の仲介で観音寺城に戻ることができました。しかし一連の事件により、家中における義賢の実権は消失しています。

六角氏式目を制定


義賢は、永禄10(1567)年には、家臣との間で六角氏式目を制定しています。 これは分国法で当主の権限を抑制する反面、家臣団が大名を支えるという内容でした。義賢も、家中の統制を模索していたことがわかります。 

 永禄11(1568)年には、織田信長が義昭を奉じて上洛の進軍を始めます。 義賢は三好三人衆と通じ信長の従軍要請を拒絶し、抗戦を選択。

信長が一万九千の兵で攻め込んで来ると、六角方は一万の軍勢で応戦します。 

観音寺城の戦い

しかし六角家はまたもやここで敗北し、甲賀郡に本拠を移しました。

家中を立て直す!

義賢は元亀元(1570)年に家中を立て直し、南近江に北進を開始します。 

義賢は縦横無尽に動きます。

野洲河原の戦い


佐久間信盛と柴田勝家を攻め、さらに同年には浅井・朝倉、三好三人衆と同盟した上で野田城・福島城の戦いで織田軍に圧迫を加えています。 

信長は劣勢となったため、同盟軍の切り崩しを図ります。

足利義昭を通じて義賢親子と和睦しました。

義賢諦めず!

元亀3(1572)年には、湖南の三宅城・金森御坊と連携して再び信長に抗戦を始めます。 

信長配下の佐久間信盛と柴田勝家らは、付近の寺院をことごとく放火した上、近在の村々に六角家に味方をしない旨の起請文を出させています。

反撃ならず!

元亀4(1573)年、義賢は琵琶湖東岸の鯰江城(なまずえじょう)に入りますが、反撃の開始とはなりませんでした。


同年、連携していた朝倉義景・浅井長政が相次いで信長に討たれます。 

さらに柴田勝家によって鯰江城(なまずえじょう)が攻め落とされると、続いて甲賀郡北部の菩提寺城と石部城も佐久間信盛に囲まれ、翌年には落城しています。

義賢は夜間、雨に紛れて甲賀郡南部の信楽に逃れます。 



天正伊賀の乱

1578年(天正6年) 伊勢国を統治することになった織田信雄は、父・織田信長の命令で伊賀への領地拡大に動き出す。 

早速、織田信雄は伊賀攻めに備えるため、神戸(伊賀市)に丸山城の修築を滝川雄利(滝川一益の娘婿)に命じた。 

新しい丸山城は、伊賀攻めの侵攻拠点としての役割を果たすため壮大な規模に修築されることとなる。 

 一方、そのことを知った伊賀では、伊賀惣国一揆による協議が開かれることになります。 

今まで自分たちが築いてきた伊賀の自治形態が脅かされることとなった伊賀惣国一揆。 

織田に対して徹底抗戦することで話しがまとまり、完成前の丸山城に奇襲攻撃をかけて織田勢を追い出すことになった。

10月25日 

白昼丸山城に奇襲総攻撃を開始した伊賀衆。 

突然の攻撃によって城内は大混乱となり、逃げ回る者で溢れて反撃できず。 

城内に侵入した伊賀衆は、完成間近の丸山城を使えなくするため、建物などあちこちに火を付ける。 

更に城内は混乱状態となり、多くの者が着の身着のままで伊勢へ逃げ帰って行った。

一次 1579年(天正7年)9月 

丸山城の失態回復だけでなく、自分のことを認めてもらおうと思った織田信雄は、父・織田信長の許しを得ないまま、8,000の兵を率いて伊賀を三方向から取り囲むように攻め寄せます。 

しかし、伊賀国内に入ると織田軍の馬や長い槍などの武器は複雑な地形で扱うには適さず、周囲への注意も散漫となり進行も遅れていったのです。 

織田軍の動きを逐一把握していた伊賀衆。 

複数回にわたる夜襲やゲリラ戦などの奇襲攻撃を加えることで、肉体だけでなく精神的にも追い込んでいった。

大敗を喫した織田信勝は、父・織田信長の逆鱗に触れ「親子の縁を切る。」とまで言われてしまう。 そして、この戦いで伊賀衆(忍び)の力を思い知らされた織田信長。 

次の戦いに向けて強い警戒心を抱くこととなる。

二次 1581年(天正9年)9月3日 

織田信雄を総大将とする総勢50,000の織田軍が再び伊賀国に侵攻したのです。 

この伊賀侵攻は、伊賀国を取り囲むように6方向から同時進行。

最期の砦となった柏原城には、伊賀国内から2,000人以上の伊賀衆が集結。 

柏原城は、直ぐに織田の大軍に包囲されるが、周囲を堀と林に囲まれていたため攻撃されにくい構造となっていた。 

また、林が簾の役割も果たし、城から相手の動きを確認できたので、伊賀衆が得意とする奇襲や火力攻撃を駆使して織田軍と戦っていた。 

これらの攻撃により織田軍に犠牲者が次々と出ていたが、織田軍全体から見れば全く支障のないものだった。 

織田軍による柏原城攻撃により伊賀衆を指揮していた者などが次々と亡くなると、籠城から一ヶ月ほどで開城した。 

開城後、城内に残っていた伊賀衆、女子供など関係なく全て捕縛、惨殺され、残党狩りも含めると約40,000人が命を落としたと言われている。 

また、伊賀国内の建物についても徹底的に破壊された。 

これにより織田信長は伊賀国を制圧した。

伊賀国が信長に平定されたことにより義賢は抗戦することを諦めたのでは?

義賢はキリスト教の洗礼を受けたとされており、このあたりで諦めたのではと思われる。 

 「城を幾度も失いながらも、七年粘った」と考えればあっぱれな根性です。

そのまま消えてしまったのか? 

 意外なことに義賢はその後も生き延びる。

【本能寺の変】の後、

豊臣秀吉の御伽衆(話し相手)となったのです。

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