近江の戦国武将 京極高次が「蛍大名」と呼ばれた理由

【女の尻のおかげ(七光り)で、出世したヤツ】 

 という実に不名誉な言い方をされてしまったのです。

もともと高次の生まれた京極家は、室町時代の【三管四職】と呼ばれる家の一つでした。 

 簡単に言うと室町幕府のエリート一家。 

 「管」は幕府No.2の管領、「職」は軍事・警察機能のトップを示し、本来であれば高次も、幕府の要職につく家の出というワケです。

しかし、応仁の乱以降は他の名門と同じくすっかり落ちぶれてました。


高次は、小さい頃に織田信長のところへ人質に出されています。 

10歳の頃には5,000石もの領地をもらっていましたから、待遇は悪くなかった。 

信長の嫡男・織田信忠とも歳が近く、そのまま順調に行けば織田家の重臣になれたと思われますが、残念なことに【本能寺の変】でその道は絶たれてしまいます。



高次は妹の嫁ぎ先が明智光秀についたため、その縁で自分も光秀に協力しました。

細川家とは真逆の道を選んだわけですね。

秀吉が光秀を破ると、高次は美濃、そして若狭へと逃れ、後には柴田勝家に匿われていたとも伝えられています。

 高次と同じく、光秀に味方した若狭の武田元明は秀吉に敗れると自刃して果てました。 

 この元明に嫁していたいたのが、高次の姉・若しくは妹の京極竜子(きょうごくたつこ)でした。 

 容姿に恵まれていた竜子は、秀吉の目に留まり、側室に迎えられました。 

 このことから竜子の嘆願や、名門京極家を従属させるための秀吉の策略だったのか、高次は赦されて天正12年(1584年)に近江の高島郡に2,500石を与えられて、秀吉に仕える事となります。 

その後高次は、天将14年(1586年)に高島郡で5,000石、続く九州征伐後には大溝城に1万石を得て大名となり、さらに小田原の北条氏の征伐後には八幡山城2万8,000石、文禄4年(1595年)には近江大津城6万石を拝領するまでの大出世を遂げました。



高次は、九州征伐で功を挙げてめでたく大名になります。 

 そして、浅からぬ縁のある浅井家の娘・お初と結婚します。 信長の妹・お市の方と、浅井長政の間に生まれた浅井三姉妹の次女です。


「高次は奥さんと義理のお姉さんを通して、秀吉に媚を売ったに違いない」 ↓ 「女の尻のおかげで出世とはいいご身分よなwww」

と言われるようになってしまいます。

しかし、武将としての実力がないとここまでの出世はありません。

お初を惚れさせたいい男だったのでしょう!

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