戦国武将浅井長政

浅井長政 

あざいながまさ 


 大名 / 武将 

出身 近江国 

生年月日 1545年0月0日 没年月日 1573年9月26日 年齢 満28歳没 

幼名は猿夜叉丸(読み方 さるやしゃまる)。

通称は新九郎

備前守

おもな官位は贈従二位中納言

別名として賢政、長政


16歳で父・浅井久政から家督を継ぎ、23歳で織田信長の妹・お市と結婚

信長は、美濃を平定し勢いづいていた。信長との同盟は浅井家にとって悪い話ではなかった。

しかし、同盟の条件である「朝倉への不戦の誓い」を信長が破ったことで関係は一気に悪化する。

浅井長政は朝倉義景との同盟を重んじ、金ヶ崎の戦いにおいて織田徳川軍を背後から衝く。

この戦いは、信長最大の危機といわれた。この戦いで信長を仕留められなかったことにより、形勢は逆転する。

浅井・朝倉連合軍は、姉川の戦いで織田・徳川軍に大敗北してしまう。

最後は小谷城で自害する。


姉川の戦いとは?


1570年夏、織田信長と浅井長政が滋賀県の姉川付近で行った戦いを「姉川の戦い」といいます。

信長軍には豊臣秀吉や徳川家康が参加していました。 

 この戦いには両軍のほかに、浅井家と古くから親交の深かった朝倉家の存在も絡んできます。

長政は信長の妹を正室に迎える政略結婚をしていたのですが、姉川の戦いが起こる半年ほど前、その信長が朝倉家に攻め入ったのです。 


 長政はいわば三角関係に陥り悩みますが、結局朝倉家につくことにし、信長軍対浅井&朝倉軍という構図になりました。 

戦い自体は9時間ほどで決着がつき、織田軍の勝利となります。

浅井氏はこの戦い以降およそ4年間、信長と争うことになり、最終的には敗れ自害します。

ここで戦国大名としての浅井氏が滅亡します。

姉川の戦いは?


血で血を洗う激戦だった! 

 信長軍は横山城を包囲し、小谷城にいた長政軍を誘い出します。

横山城を守りたかった長政は、姉川付近に5000~8000人ほどの兵を出します。

対する信長軍は20000~23000人です。 

 数でいえば圧倒的に信長が有利。


しかし長政軍は士気が高く、信長はかなり劣勢に追い込まれたようです。 

 勝敗を分けたのは、援軍である朝倉軍と徳川軍の差でした。

信長に対しては、家康が自ら5000人の兵を率いて参戦します。

一方長政にも朝倉家が支援をしますが、当主の義景ではなく、越前国からは義景の従兄弟 朝倉景建(かげたけ)が援軍としてやってきます。人数は8000人ほどいましたが、総大将が当主でないからか家康優位で戦いが進みました。 



 朝倉軍をあらかた倒した家康軍が、信長軍を援護し、最終的に信長&家康連合軍が勝利しました。 

 戦いはおよそ9時間続き、姉川が血で染まったと伝えられています。

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